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 戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ 2018年2月にまとめました

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その1

2018年になって、初めての更新です

余りにもマイペースで本当に申し訳なく思います

昨日は建国記念日の日で、お稲荷さんの日でしたが、余市神社も稲荷系と言う事で

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昨夜は、いなり寿司を食べましたよ

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今年は「戊辰150周年」と言う事ですよ

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明治元年は1868年、戊辰戦争から150年という節目の年なのですね

会津若松市では、イベントも目白押しのようです

会津若松市戊辰150周年記念事業
http://boshin.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/


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会津藩士と余市町の関わりについてのおさらいです

まず、余市町の年表を見てみましょう

余市町のHPより
http://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/syoukai/history.html

余市町のあゆみ(余市年表)

年(西暦)

できごと


慶長4年(1599年) 松前慶広(伊豆守)、松前左膳に余市川右岸を与え上ヨイチ余市場所とし、左岸を松前八兵衛に与え下ヨイチ場所とする。
元禄元年(1688年) 松前藩、神威岬(かむいみさき)以北への婦女子の通行を禁止する。
文化3年(1806年) 幕府目付役遠山金四郎景普ら西蝦夷地(にしえぞち)を巡回。
文政3年(1820年) 初代林長左衛門ヨイチ場所を請負い、各地に漁場を拓く。
安政3年(1856年) 神威岬以北への婦女子の通行禁止を解く。これによりヨイチに定住する者増加する。
安政4年(1857年) 余市・小樽間の道路開通する。
明治2年(1869年) 開拓使余市詰役員派遣(浜中出張所)。余市定着77軒
明治4年(1871年) 旧会津藩士、余市町に入植。
明治8年(1875年) 開拓使、アメリカから取り寄せたリンゴなどの苗木を農家に配布。
明治12年(1879年) 余市リンゴ、はじめて結実。

明治16年(1883年) 余市・蘭島間にトンネル開通。
明治18年(1885年) 幸田成行(後の露伴)、余市電信局に赴任。
明治33年(1900年) 7月1日、郡内11町村を合併して余市町となる。
明治35年(1902年) 北海道鉄道株式会社により鉄道敷設。余市駅開設。
明治40年(1907年) 余市、小樽間に電話開通。
明治42年(1909年) 阿部勘五郎、黒川村に余市酒造(株)創設。銘酒「十一州」発売。
大正4年(1915年) 小樽電灯株式会社の工事により町内に電灯点灯(3,000余戸)。
大正9年(1920年) 第1回国勢調査。人口16,809人。
大正10年(1921年) 山田村にアユ人工孵化場建設。
大正14年(1925年) 大江村下山道地区を余市町に併合。
昭和4年(1929年) 北海道水産試験場完成。
昭和9年(1934年) 大日本果汁株式会社(現ニッカウヰスキー)創設。
昭和25年(1950年) フゴッペ洞窟発見される(昭和28年国指定文化財に)。
昭和29年(1954年) この年を最後として以後ニシンの回遊が途絶える。
昭和33年(1958年) 余市町立天然水族館完成。上水道が竣工し、市街地に給水。
昭和36年(1961年) 第10回全国高校スキー大会で余市高校優勝。
昭和37年(1962年) 前年に続き大水害発生。大川橋流失。
昭和40年(1965年) 北星学園余市高等学校開校。
昭和44年(1969年) 運動公園野球場完成。余市水産博物館開館。第1回北海ソーラン祭り開催。
昭和46年(1971年) 役場新庁舎(現在の庁舎)完成。
昭和47年(1972年) 笠谷幸生選手、冬季オリンピック札幌大会70メートル級ジャンプで金メダル獲得。
昭和54年(1979年) 中央公民館、陸上競技場、歴史民俗資料館完成。
昭和57年(1982年) 総合体育館オープン。
昭和63年(1988年) 英国ストラスケルビン市(現イーストダンバートンシャイア市)と姉妹都市提携。
平成3年(1991年) 北海道余市養護学校開校。余市図書館開館。
平成4年(1992年) 毛利衛氏、スペースシャトルに搭乗して宇宙実験。
平成7年(1995年) 旧余市福原漁場(国指定史跡)一般公開。
平成10年(1998年) 斉藤、船木選手、冬季オリンピック長野大会、ジャンプで金メダル獲得。宇宙記念館オープン。
平成17年(2005年) 第18回国勢調査。世帯数9,310世帯・人口22,734人
平成18年(2006年) あゆ場公園パークゴルフ場完成。
平成21年(2009年) 余市川浄水場(山田町)供用開始。
平成23年(2011年) 「北のフルーツ王国 よいちワイン特区」」に認定される。
平成26年(2014年) 名誉町民の竹鶴政孝氏とリタ夫人をモデルとしたNHK連続小説「マッサン」が全国放送される。(放送期間:平成26年9月29日~平成27年3月28日、全150回)
平成27年(2015年) 奈良県五條市と交流都市提携の締結。
平成27年(2015年) 福島県会津若松市と親善交流都市の締結。



この部分が、会津藩士が余市にに入植して、日本で最初にりんごを結実させた歴史です


明治4年(1871年) 旧会津藩士、余市町に入植。
明治8年(1875年) 開拓使、アメリカから取り寄せたリンゴなどの苗木を農家に配布。
明治12年(1879年) 余市リンゴ、はじめて結実。


会津藩士と余市町の深い繋がりについて

前田克己氏が書いた豆本~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11

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これを紹介しながら、振り返って行きたいと思います

この本は、平成2年に出された物で、表紙の殉職碑はこれですね

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豆本ですから、手のひらサイズの小さな本です

本編は、次回になります

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その2



■小樽内へ上陸

旧歴明治2年9月21日、東京の品川を出港したアメリカ籍の蒸気船コユール号が目的地のオタルナイに入港した。

その船の乗客は、兵部省の井上弥吉に引率された北海道移住旧会津藩士の第1次隊の103戸332人でした。

旧歴の9月21日と言えば、新暦では11月4日、北海道は晩秋というより初冬

日本海は荒れしけ続きで食事も喉を通らなぬ者も多く信香浜に着いて蘇生した思いだったと、移住2世の川俣兵司氏が「炉辺夜話」に書いている


「オタルナイ」とは、今の「小樽市」

当時は、勝納川の河口を中心に海に平行して信香(のぶか)・勝納(かつない)が開けた所で寂しい漁村でした。

宿泊所となったのは、漁期外の鰊番屋や遊女宿、遠い蝦夷地への移民の悲哀と憤りもあったという。

第2次隊は9月30日、大阪丸で到着。資料が残っていないため108戸と推測されています。



【廃村の廃橋】オタルナイ集落跡・現地調査本編①廃橋編abandoned village with waste bridge in Sapporo suburbs

https://www.youtube.com/watch?v=i9n1kGq-3vk

文献上最初の和人入植地とされる、「オタルナイ」石狩湾新港建設等の影響で1970年台に廃村になったが、今でもその痕跡が残る。
「おたる」の地名はアイヌ語の「オタ・オル・ナイ」に由来する。しかしこの言葉は現在の小樽市中心部を指したものではない。

【廃村の廃橋】オタルナイ集落跡・現地調査本編②集落跡編abandoned village with waste bridge in Sapporo suburbs

https://www.youtube.com/watch?v=mR4SSE5uZmo

文献上最初の和人入植地であるオタルナイは、原名をタルナイといい、今の小樽市や石狩市樽川のベースになった集落です。漁業不適地ということで、漁場を求めて人が散っていき、石狩湾新港開発に伴い1970年代に廃村になったそうです。
今でも集落の十字路、メインストリートは残っていますが・・・
厳しい自然環境で、漁業にも農業にも適さない河口砂地で、交通の便も悪く、舟運をやるには川が小さく、人間が住む理由が見つからないような土地です。




■蝦夷地移住のいきさつ

慶応4年(1868年/明治元年)、会津藩の鶴ヶ城は落城し西軍が勝利、城内にいた藩士たちを、会津藩士卆として猪苗代に収容し謹慎させました

この年の暮れには東京送りとなり、西軍諸藩監視の元で引き続き謹慎の身となった

戊辰戦争の敗者といえ、会津藩士は屈強で、新政府にとっても厄介な存在だったのです

最初に信州の松代藩に移住予定でしたが、途中で松代藩から「人数的に無理」との陳情で東京に送られたのです

城の外に居た藩士たちは、越後高田藩送りとなり寺院などに分散収容されました

明治新政府は、多くの仕事が山積み状態であり、その一つに蝦夷地開拓がありました

兵部省が政府に対して出された「会津降伏人始末荒目途」の記述には、こうありました

「総人数を1万7千人とみて、そのうち1万2千人を蝦夷地へ移し、5千人を内地3万石の地へ移す。

蝦夷地にへは、巳年(明治2年)4千人、午年に8千人。移住者には家作・農具代として48万両、米7万石を支給して欲しい」

政府は、最初から旧会津藩士を蝦夷地へ送り込み、北海道開拓をさせる算段があったのだろうと思われます

若林功七の「北海道開拓秘話」では

「降伏人には国民として一視同仁から特別の寛典と便宜を与え兵部省管理として、一部を北海道の発寒・石狩・小樽に移し開拓に従事させる事にした」と書かれています

柴五郎氏によると

「自由を束縛され屈辱に日々を送るよりも、新天地での生活が出来て、旧主の罪が許されるならと、200戸近くが応じた」とあります

しかし、それは、初めから普通の移民では無かったのです


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落城後の鶴ヶ城~銃撃の後が残っている

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会津若松観光ナビのHPから

若松城 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/若松城

若松城(わかまつじょう)は、福島県会津若松市追手町にあった日本の城である。 地元では鶴ヶ城(つるがじょう)と言うが、同名の城が他にあるため、地元以外では会津若松城と呼ばれることが多い。文献では旧称である黒川城(くろかわじょう)、または単に会津城とされることもある。国の史跡としては、若松城跡(わかまつじょうあと)の名称で指定されている。



その3へ続きます
 

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その3


■招かれざる客

蝦夷地(北海道)へ第1次隊が上陸して、わずか1週間後の事です

明治2年9月27日、政府は松平家の家名再興を許す事を決め、願い出るようにとの通達を出します

宿願であった謹慎が解けていたのです

松平家では、容保公の実子の慶三郎(1歳)を立てて家名再興の願いを出し、

その後、11月3日に陸奥下北南部に2戸・3戸などに、3万石を与えられたのです

*(目安として、1万石で1万人が養えるようです)


当時の情報伝達であっても、この情報は、すぐに北海道に移住した旧藩士たちにも伝わりました

「もう1か月出発が遅かったら、こんな未開の蝦夷地には来なかったのに」

「主君免罪の名目で、われわれをだました」

「何のために来たのか、主君と藩士の謹慎解除のためだったはずなのに」

多くの不満を呼ぶ事になったのです


青木日記によると

明治2年17日付けで

三人の隊員が「公私慎の姿を似て屹度慎被仰付候事」とあり、20日目に許され、うち一人は取締役を解雇されている

明治2年11月27日付けでは

「佐藤寅之助と申者清水金五郎、広瀬新吉と申者共江ケンカ致候事」とあり

翌日には「晦日 今晩、佐藤寅之助落命致候、天朝の御役人御改に御出に相成候」

これらの記述から、ケンカが常態化して絶えない様子が伺えます

************

「青木日記」

第1次隊の藩士の青木寅之助氏が、明治2年9月21日から3年4月16日までの事をメモしていた日記

10月から会所勤めとなり、人の出入りや藩士家族の生活なども書かれている

小樽での生活に関する唯一の貴重な資料です。日記の所有者は、札幌市の青木義雄氏

***********


■石狩入植の中止

明治2年7月、明治新政府は北海道開拓使を設け、8月15日には「松浦武四郎」案に基づき

蝦夷地は、正式に「北海道」と命名されました

9月には、開拓使長官の東久世通禧氏が函館に到着し、札幌への拠点として、30日には開拓使出張所が出来ます

一方、兵部省は、先駆けて小樽に出先を置き、支配地に「石狩・小樽・高島」などを管轄下にしました


開拓使は「佐賀藩」

兵部省は「長州藩」

ここでも、藩閥の対抗意識があったわけです

しかも、犬猿の仲です


兵部省は、先に来道した結果、石狩や銭函の港を押さえ、開拓使側に糧食米を運ばせなかったそうです

開拓使側は、各場所の運上屋場所請負人に任命して、手持ちの米を集めたというエピソードもあります

**余市運上屋の「林長左エ門」氏も、少主典に任命され、米百俵を送っています**


開拓使と兵部省は、その後も対立した事で、会津藩士の命運も変化して行きました

開拓使は、札幌を管轄地とします

兵部省は、会津藩士を石狩当別に入植させるという計画で進めていました

兵部省は、札幌周辺の開拓に成功していた大友亀太郎氏を石狩国兵部省出張所開墾係に任命

12月に結氷を待って、石狩川を渡り会津藩士と木こりで雪の原野を測量し、住宅用の木材も伐採しました


この時に同行した会津藩士の記載が、前出の青木日記に書かれています

明治2年10月12日

「佐竹四郎太殿二宮俊蔵殿細谷伴助殿山内直之助殿石黒信太郎殿松本原之助殿、トウベツ方面へ罷越」

この藩士は10月25日と11月7日に別れて帰り、11月8日には落合恒三郎、阿妻が出張、12月15日には隊長宗川茂友も石狩当別に出張している

明治3年2月2日

「後者の分は石狩江別移候様、先着の分は高嶋・熊臼引移候様仰聞候」

3月18日「隊長トウベツノ方面へ出張候事、お供ニテ石山・青木」


しかし、大友氏によって進められていた当別移住計画は、突如として中止となったのです

理由は開拓使と兵部省の力関係が変化でした、明治政府が開拓使に引き渡すように命じたのです

兵部省は、陸海軍省に移行する計画だったようです

政府のやり方に嫌気がさした大友氏は辞任しますが、慌てた開拓使側は、開拓使掌に任命するも即日辞職して6月には離道してしまいます


3月になり、時期は鰊漁期に入り、小樽高島への移住組(鰊番屋住み)が、全員が石狩に移住しなければならなくなったのです


そして、余市へとなるわけですが

君たちはどう生きるか状態ですよね

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その4へと続きます


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当時の蝦夷地は、西と東に分けられていました

東側は「アイヌ居住区」として残し、境界線を作って対立しないように配慮していたのです

明治政府は、西側しか開墾出来なかったのです

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余市運上屋の資料
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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その4



若林功(若林功七)氏の「北海道開拓使秘話第3巻」によると

「進退維谷り(しんたいこれきわまり)」という記述があります

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■進退維谷り

兵部省と開拓使の対立は、会津藩士たちへ大きな影響を残しました

石狩・小樽・高島の支配が、開拓使へと引き継がれたわけですが

開拓使は、兵部省からの引き継ぎを無視し相手にしなかったため

兵部省は、政府に藩士団を旧藩士へ返還するように要請します


しかし、旧藩主は、西軍からやっと許されて斗南藩3万石に移るために、四苦八苦の最中です

結局、北海道へ渡った旧藩士は引き取れませんでした

斗南藩は、開拓使へ引き取れない旨を願い出ましたが、開拓使は相変わらず冷淡な対応をします

兵部省と開拓使の縄張り争いに巻き込まれて、移住先が決まらないという状況なのです


まずは、今住んでいる鰊番屋は、ニシン漁が始まると出なければなりません

帰る藩も場所も自由も無く、独身の藩士の中には脱藩者(行方不明)まで出てしまいました

雪が消えるまでに移住先を決めて、雪解けと同時に開墾に移らなければなりません


明治3年2月に、樺太開拓使が設置されました

そして、5月には「黒田清隆」氏が、北海道開拓使次官となり樺太開拓使専任として赴任します

移住先も決まらないままの会津藩士たちは、黒田氏に嘆願書を出したようですが、詳細は不明です

黒田清隆氏と言えば、西軍薩摩藩の参謀であり、旧とは言え敵側の大人物

そこに願い出るわけですから、気持ちは複雑だったのでは無いでしょうか

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黒田清隆 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/黒田清隆


結果、黒田清隆氏が、その願いを受け入れる事になるわけです


宗川茂友家の家宝として、藩士団の懇願を承諾した旨の書簡が現存しているようです

**********

前文略す

指て過日より御示談之をたるない江

同藩之仁者昨日小生御引受辯官より

民部省江御藩江其儘住居又者帰藩之者

分別を付け御願書差出さる、方に内決

以堂し候之由内密御案内申し植え置候

尚書余拝願之上に奉存候 早々拝具

11月4日      黒 田 拝

廣沢君

宗川君


(漢字はそのまま、カタカナ→ひらがなにしています)

*********

11月4日とは、明治3年、宛名は「廣沢安任」氏と、前出の「宗川茂友」氏です

廣沢安任」氏は、2013年、NHK大河ドラマの『八重の桜』(岡田義徳さん)にも登場しましたね

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広沢安任 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/広沢安任

広沢 安任(ひろさわ やすとう、文政13年2月2日(1830年2月24日) - 明治24年(1891年)2月5日)は、江戸時代後期(幕末)から明治期の武士(会津藩藩士)、牧場主である。通称富次郎(とみじろう)。

広沢庄助の次男。文久2年(1862年)、会津藩主・松平容保は京都守護職に任ぜられ、安任は先んじて上京し京都の情勢を探った。容保上京後は公用方に任ぜられ、公卿、諸藩士、新選組などと交流を持った。鳥羽・伏見の戦いの後、江戸そして会津に戻った容保らの立場を新政府に嘆願するため、江戸に残ったが新政府軍に投獄された。明治2年(1869年)に釈放されているが、これは親交のあった英国外交官アーネスト・サトウの進言があったと言われている。

その後、会津藩は戊辰戦争に破れ斗南(現在の青森県の一部)に減封移封された後に廃藩置県により斗南県となっていたが、斗南県小参事となった安任は、困窮にあえぐ自県の救済策として弘前県への吸収合併を画策し、八戸県大参事・太田広城と両名で、弘前・黒石・斗南・七戸・八戸の5県合併を政府に建言した結果、合併による新たな弘前県(後の青森県)の成立に至っている。

また貧困に苦しんでいた旧会津藩士のため、明治5年(1872年)に谷地頭(やちがしら、現在の三沢市)に洋式牧場「開牧社」を開設し地域の発展に尽くした。当初は地元の反対、資金難に苦しんだが、内国勧業博覧会で馬、牛が龍紋賞を受賞している[1]。、なお、明治9年(1876年)の明治天皇青森行幸の折には、随行していた内務卿・大久保利通が牧場を訪れ中央政府の要職を準備して仕官を薦めたと言われており、その後も幾度か政界への勧誘があったと言われているが、「野にあって国家に尽くす」として固辞し、畜産・酪農に生涯をささげた。養嗣子に甥の辨二を迎えた。辨二は駒場農学校を卒業した衆議院議員である[2]。


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宗川茂友」氏については、余市町のHPにも詳しく載っています

https://www.town.yoichi.hokkaido.jp/machi/kouryuu/aizu.html

福島県の西部、会津盆地の東南に位置し、若松城や白虎隊で有名な会津地方の中心都市です。明治4年に会津藩士の方々が入植され、日本ではじめてリンゴの栽培に成功しました。

 古くからゆかりのある両市町において、平成27年10月に交流の絆をさらに深めるため親善交流都市の締結をしました。
 HP:http://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/

会津と余市町の歴史

会津藩士とリンゴ

 余市を代表する産物と言えば「リンゴ」というのが北海道人の連想ですが、リンゴが余市に根付くまでには、明治初期に本町に移住してきた会津藩士の苦難の歴史がありました。
(このコーナーは、福島県会津若松市とのホームページ相互リンクを記念して掲載しました。)

藩士団、余市へ

 明治2年、東京謹慎中の会津藩士らの蝦夷地行きが決まりました。同年9月、兵部省の管理下におかれた旧会津藩士団103戸333名は品川沖からコユール号にて出帆、11日間の船旅の後オタルナイへと到着しました。
到着後しばらくは兵部省の北海道からの引き揚げなどで落ち着き先が決まらない日々が続きました。藩士団は樺太開拓使黒田清隆に請い、樺太開拓使管理下に入りましたが、後には樺太開拓使も廃止となり、最終的に余市へ移住が開始されたのは、小樽上陸後1年半が過ぎた明治4年4月のことでした。

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そして、明治3年12月に、樺太開拓使の費用をもって、小樽在住の旧会津藩士は救済される事になりました

もう逆賊でも流罪人でも無く、旧藩への復帰とされ、ようやく救われる事になりました

仮の移住という名目で、年明けを待って余市川下流の未開地、当時の地名で「余市郡シュプント」への移住が決まりました

「シュプント」とは、アイヌ語で、シュプン=うぐい、トー=湖沼

余市へ移住した後に、「黒川」「山田」という町名を付けたのも、黒田清隆氏への感謝なのでしょうね

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この地域の利点は、水運が良く、洪水期にも水没しないし、比較的肥えていて、しかも無人地域でした

木材などを運ぶにしても、陸路は未開ですから海川に面していないと運べなかったのも大きいでしょうね

この頃の余市は江戸時代から移住者がいました

余市は泥炭地が多く、大雨でも水がつかない地域の大川町や浜中は、すでに居住地となっていました


明治2年の初冬から、1年3か月、ようやく生きる場所が見つかったわけです

移転先が決まった事で、青森の南部から木材を買い函館で切り込み、余市へ送られ準備が整いました

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昭和43年頃まで残っていた入植時のおもむきを残す居宅の写真



次回は、余市移住後の旧会津藩士のお話しになります
 

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その5


■血判書

明治4年正月、開拓使小樽仮役所で、斗南藩代表の「広沢安任」氏と樺太開拓使監事「大山壮太郎」との間で移民の受け渡しが行われました

この時の藩士団は、隊長「宗川熊四郎茂友」氏を筆頭に193名が血判の受書を提出しました

これが「血判書」です

受書=請書で、誓約書とも言えます

(余市水産博物館に、旧会津藩士から寄贈された「御受書」が現存しています)

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********

御受書

別紙御規則に隨い実行を以可奉天恩之処万一御法度に背き産業等を惰候輩は其品により厳科可被仰付趣奉畏候、右御受申上候   以上

明治4年未正月元日

宗川熊四郎(ほか192名)


********

この血判書は、藩士の一人「東(とう)」氏が長い間所蔵していて、余市町に寄付されたものですが

本来なら、樺太開拓使に提出したはずですから、残存しているのは副本もしくは控えだったのかも知れないですが

余市町史4によれば、副本ではなく、後年に何らかの目的、例えば「士族復籍」などのために作製したものと考えられると書かれています

血判書の末尾に別筆で書き加えた氏名もあり、斗南藩経由は18名であり、他は第3次隊もしくは、1~2次隊の子弟だそうです


樺太開拓使は、明治4年8月に廃止となったため、全ての移住者は北海道開拓使の管轄となりました


■黒川村・山田村の誕生

明治4年1月1日をもって、血判の受書を提出して余市郡シュプントに移る事になった藩士団

2月になり雪中から伐り出した木材で、最初に建てたのは給付される玄米を貯蔵するための「積殻倉」でした

3月には家を建てる場所を作り、登川に幅8間の橋をかけ「新開橋」と名付けます

5月には1村に1づつの公衆浴場も完成し、子弟教育のために寺子屋も建てています

幹部は戸建てでしたが、多くの家屋は5戸長屋、6月には小樽から荷物も届き、7月には入地が完了しました

余市町史より
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血判書の氏名を調べると193人のうち、親子とも記名は3組、兄弟の記名は分家と考えると

実個数は190戸となるため、全員が入植したのでは無いと言う

北海道開拓使報文や、北海道庁植民状況報文などの公式文書にはこう書いてあります

*******

「明治2年小樽港に抵る者百戸」

「明治4年先つ仮に余市に居らしめ後之を樺太に移さんとす因て漸次此に来往する者、百六十九戸遂に聚落を成す・・・・」


*******

公文書の記述と実際の入植戸数が違っています

前述では、第1次隊は103戸、第2次隊が108戸であり、血判書では190戸、公文書では169戸です

この戸数の違いは、入植が完了する6か月間に入植に加わらなかった人たちが居たという事のようです

宗川熊四郎茂友の譜代の家来である白藤又作・和気慎太郎などもいなくなっているようです

明治4年には第3次隊が来ました

それまで、何らかの事情で移住が遅れていて、芝の増上寺山内の搭中に分散宿泊していた人たちです

取締役は三宅安蔵氏で、戸主はすでに渡道している家族は33世帯の98人、戸主及び家族ともは13戸55人の153人


■屈辱の日々

血判書まで提出し、決意を持って入植した旧会津藩士ですが

当時の余市には、すでに先住の人たちが住み、経済力のある漁業家や商家や寺社もありました

葬儀を出す際に、会津は逆賊扱いされ断られ、会津藩士は改宗して神徒になったそうです

隊長の宗川家も会津時代には浄土宗でしたが、この件以降は、ずっと神徒だそうです

鰊漁に出面稼ぎに出かけるような事も武士にとっては、屈辱でした

さらに、3年間の扶助がうち切られる前に、自己生産を持って生きていかなければならないという事情もありました


北海道の先住民であるアイヌ民族には、農耕文化がありません

そのまま残っている原生林を開墾するための道具は、開拓使から提供されたとは言え簡単には進みませんでした

いよいよ扶助が切れるという明治6年、開拓使はノルマ(1町1反)を与え、達成者には奨励金を与えました

奨励金のおかげか、開墾の成績が格段に上がったようです


明治7(1874)年の10月から

農業現術生徒の福本政寛氏と藤吉五郎氏が助手を伴って西洋耕作機械で新しい農法と機械の取り扱いを教授しました

アメリカ近代農業技術を学び普及は、開拓使によるデモンストレーションでもありました

教えを受けたのは、長崎尚志らの10名との記述があります

馬を使い20日間で約5町歩の畑を耕起し、これからの開拓に馬耕が必要だと深く感銘を受けたようです

中でも、副戸長の在竹四郎太は、開拓使に札幌官園での実習を申し入れました


1棟5戸を5家と言い、伍長を置き、5家を5~6組まとめて1村長を置きました

以下は、各村長です

川の東には

1番村---杉本弥三郎、2番村---佐藤駒之進、3番村---武藤格弥、4番村---在竹四郎太

川の西には

上村---一柳平太郎、下村---落合恒三郎

入植後に、川東村は「黒川村」、川西村は「山田村」となりました

命名には、黒川村は、開拓使の「黒田清隆」氏と総取締の「宗川茂友」氏から1文字づつ

山田村は、「黒田清隆」氏と樺太開拓使監事の「大山壮太郎」氏から1文字づつ合わせたそうです

また、一説によれば、会津若松の古名が「黒川荘」で川の名前にも「黒川」がある事からとも言われています

山田の「田」は、開拓使余市出張所の「吉田大主典」の田をとったともあります


明治7年には、黒川村山田村が使われています

余市町史より、明治7年の黒川村山田村の蒔き付け面積

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明治33年の記録の、土地3町歩以上の所有者名簿に82人の名前があります

その名簿の中に、何と19名の旧会津藩士の入植者の名前が載っているそうです

19人の平均面積は、約5.1町歩で、会津藩士以外は、漁場経営者だけでほぼ不在地主です

会津藩士の能力の高さに、驚きますね



そして、旧会津藩士が、日本で初めてのりんご栽培への道にと続きます


 

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その6




■日本で初めてのりんごが実る

開拓使からりんごの苗を配布された旧会津藩士が、ついにりんごの実を結実させます


余市りんごの初収穫の様子を、川端義平氏がこう表現しています

***「川端義平」さんは余市在住の作家の「朝谷耿三」氏、著書に「余市物語」などがあります***

「つるべ落としに北国の秋が去ろうとする頃、赤羽源八の「緋衣」が6つばかり、金子安蔵の「国光」が7つほど、乙女が恥じらうように葉の間から色づいた姿を見せた。

人々は、これが役人の言った滋味にして栄養豊富な珍果りんごと言うものかと木の元に集まった。

赤羽源八は成功の感謝と神々への感謝で、もぎとる手が震えた。ずっしりとした手ごろな重みと感触は永年政府に持っていた不満も拭い去る高貴さを感じた・・・」


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りんごを実らせたのは、偶然では無く、国光を実らせた「金子安蔵」は、開拓使の農業現術生として修業した成果であったとも考えられます

明治9年札幌農学校(現北海道大学)が開校する以前の明治7年の8月14日の記述に

金子安蔵氏は、4等現術生徒(6円)という辞令を出されています

現術生として、果樹栽培を学んだ金子氏が、配布されたりんごの苗を大切に育てた成果だったようです


■りんご栽培に関しての功労者

余市会津藩士団からの現術生の記録

明治7年 中田常太郎(1等生徒)東 轟(4等生徒)
明治8年 東 蔵太(4等生徒)川俣友次郎(4等生徒)
明治9年 木村猪和雄 横山留三 

金子安蔵さんは、明治12年に1等生徒となっていますし、明治17年には勧業課農務係判任官の辞令で月棒10円の記録があります

川俣友次郎さんは、りんご栽培に尽力され、その後町議となり産業功労者となっています

東 蔵太さんは、一時期は開拓使に勤めていますが余市に戻って、りんご栽培の功労者となっています

余市会津人の3元老の一人「三宅権八郎」氏は、果樹・畑作のために余市町農会の創設に奔走し、農会長となった功労者

小栗富蔵氏は、りんご栽培の傍ら、余市りんご購買販売組合(後のりんご同業組合)を設立しました

その組合長を引き継いだ、水野音吉さんは、明治39年にはロシアにも輸出する道筋を作った人物

余市農業の発達史には、病害虫防除の功績として、伊藤甚六、百瀬清三郎、石山亀次郎、黒河内辰巳、さんたちの名前が残されています


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(小樽・後志の歴史:郷土出版社)より

記述者の菅原一也さんは、余市文芸42号(2017年3月)の中で「会津藩士の墓場山」「日進館」などについて詳細に書かれています

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余市農業発達史によると

明治12年、余市山田村の金子安蔵の畑で49号(国光)と呼ばれるリンゴが複数の実を結んだとあります

同じく赤羽源八の畑でも19号(緋の衣)が結実したとされていて、これが「余市リンゴのはじまり」です

このリンゴを結実させた苗木は、明治8年に開拓使から贈られた物です

当時開拓使では、明治5年3月、アメリカからリンゴ、梨、桃、プラム等の苗木を輸入すると伴に、その栽培の指導者としてルイス・ベーマーを雇い入れています

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ドイツ人の庭師とも言われていますが、北海道の気候がドイツに近かったのも影響があったのでしょうか

昨年に書いた「りんごの歩んだ道」でも書いたと思うのですが
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-996.html

東京の官園でルイス・ベーマーが教えた簡便で確実なリンゴの接ぎ木法が、開拓使だけではなく各地に行き届いたからでしょう

明治5年、ベーマーが指導する東京青山の官園に、余市から中田常太郎という元会津藩士が「農業成育方」として派遣されています

ベーマーは、明治7年、植物の生育分布調査で半年ほど北海道を廻る中で、7月26日に10名余の従者と伴に回路古平を経て余市の地を踏んでいます

明治3年浜中町に明治政府の開拓使出張所が設けられていたこともあり、開拓使の用命で東京から出向いてきたルイス・ベーマー一行は厚い歓待を受けたようです

翌明治8年、ベーマーによって品種名と番号で管理されたリンゴの苗木が北海道各地に配られたわけです

https://ja.wikipedia.org/wiki/ルイス・ベーマー

ルイス・ベーマー(Louis Boehmer, 1843年5月30日 - 1896年7月29日)は、明治初期のお雇い外国人(ドイツ系アメリカ人)。開拓使に雇用され10年の長きに亘りリンゴなどの果樹栽培やビール用ホップの自給化、各種植物の生育指導などで北海道の近代農業発展に貢献した。ドイツ北部・ハンブルク近郊のリューネブルク生まれ。

(抜粋)

ちなみに1879年(明治12年)余市で結実された俗称「四十九号」は後に「国光」と命名されているが、最初の生産者の金子安蔵は1874年(明治7年)現術生徒(当時24歳)になりベーマーやダンから直接指導を受けた旧会津藩出身者である。

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前田克己氏の会津藩士物語は、多くの会津藩士にスポットを当てて書いています

その中でも、旧会津藩士を余市に移住させた功労者の隊長「宗川茂友」氏について多くのページを使っています

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「宗川茂友」とGoogleでググってみても、ヒットするのは、蝦夷地へ移住した旧会津藩士の隊長としての活躍が主です

また、余市に移住後、明治11年か12年に帰郷しています

元々、余市移住の藩士団は京都守護職以来、幕末の戦火をくぐって来た歴戦の強者でした

渡道は応募という事だったのですが

「家老の萱野権兵衛の一味枝幹という名目で蝦夷地へ流罪」と考える者もいますし

「主君の松平容保公ならびに一藩に代わっての渡道」「旧藩渡道のさきがけとして」と思う人もいます

ですから、旧藩士には賊軍という意識は無かったと思われます

しかし、現実としては、渡道後の一か月後には、会津藩は謹慎を解かれ、斗南藩へ移封となるわけです

何のための渡道だったのか、移住組の藩士の多くはそう思ったでしょう

また、兵部省と開拓使の対立にも巻き込まれ、多くの矛盾や問題点を抱えたまま、未開地で不自由な集団生活ですから

多くの不満で暴動を起こしても不思議では無いような状況下に置かれたのです


この状況の藩士団をまとめ、交渉し、移住藩士の生活の全てを指揮し、移住を成功させたのが「宗川茂友」氏だったのです

自らも、未開地を開墾しながら、指揮をとり、まとめ役となった隊長の宗川茂友さんとは、どのような人物だったのでしょう



その7に続きます



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吉田観光農園でとれた「緋の衣」

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駅前の山田商店さんの木箱用の貼り紙(山田商店さんは2017年2月で閉店しました)

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「国光」の画像が無くて、Wikiから借りて来ました

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%85%89_(%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B4)


 

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その7



前回のルイス・ベーマーについての追記です

https://ja.wikipedia.org/wiki/ルイス・ベーマー

べーマーの偉業をたたえ、べーマー会があります

「べーマー会」Boehmer Club
http://luisboehmer.com/

べーマー会では、余市のシリパ岬を望む山本観光農園に記念碑を建てています

「透明りんご」をイメージした記念碑です

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その新聞記事
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山本観光農園
http://www.fruits-yamamoto.net/


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■隊長「宗川熊四郎茂友」

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「宗川茂友」氏が、会津藩の北海道移住で隊長を任された経緯は良くわかっていません

蝦夷地行きの志願者の中から選ばれたのか、藩の命令によるものだったのでしょうか

茂友の父は、茂弘と言い、鶴ヶ城籠城の時に入城し、開城後にはしばらく米塚村に居たそうです

この時、茂弘氏は60歳を超えていたため、60歳以上は会津の在所で100日間の謹慎だけで、収容所へは行かなかったのです

10月初めには息子の茂友の妻子と一緒に河沼郡笈川村鴻巣又吉方に預けられています

茂弘・茂友親子が、蝦夷地へ出発する際に、藩主の容保公は短冊に一首を与えています


蝦夷地にゆくと聞いて

我はまだ蝦夷氏知らねども蝦夷が嶋

寒しと聞けば心して住め
     
        容 保


茂友の任務は藩公と一藩に代わって隊士を引き具し、未知未開の蝦夷地に渡り、新政府兵部省の指揮に従う事でした

元とは言え、26万石の殿様から格別の餞の言葉を戴いた宗川親子は、感激し蝦夷地に骨を埋める覚悟だったでしょう


「宗川茂友」は、熊四郎茂友ですけど、勇之進茂弘の3男として天保元年12月5日に会津若松城下に生まれます

2人の兄は天折したため、茂友が家督を継ぐ事になったのです

   嘉永6年10月、江戸表江罷登発之御目申上候

茂友は、23歳と10か月で初御目見となります

この頃は、日新館で武術の鍛錬に励み、宝蔵院流槍術を師範安藤市蔵に学び、名手となっています

お目見えの翌年には、御備組付となり、安政6年には武芸が認められて御供番に加えられ、藩主容保公の身辺護衛役として終始します

京都守護職時代も、会津戦争に籠城するまで護衛役をしています

「お殿様の御護衛役として、常に影の如くお仕えして来ました」(宗川ミヨさん談)


祖父の茂京、父の茂弘は、共に藩主の侍講で、叔父の茂は勝れた学者でした

家系的には、武道では無さそうですが、茂友は槍一筋の武人となったのです

慶応4年以降は、護衛や軍事方、歩兵隊などを経験し、9月に砲兵仮番頭となっています

鶴が城籠城の時は、砲兵2番隊隊長だったようです

これ以降の、茂友氏に関する履歴は残されていません


北海道移住以降の履歴が残っていないのです

渡道以降の記録は、他の文書や文献からの推測となっています

小樽上陸の頃の記録としては、「オタルナイ騒動」があります

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明治2年9月、渡道した茂友一家の構成(内は年齢)

父-「勇之進茂弘」(72)
妻-「須美」(34)
長女-「登良(とら)」(13)
次女-「未津(まつ)」(11)
次男-「虎次」(8)
*長男の虎松は戊辰戦争で戦死しています

譜代の家来
白藤又作(27)
和気慎太郎(23)和気長吉(21)


余市移住前に譜代の家来は自由となり、和気長吉のみが独立して開拓の1員になっています

また、長女の登良は杉本弥三郎氏のところへ嫁いでいます

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小樽に上陸してから、余市への移住までの1年半

この「宗川茂友」という隊長が居なければ、乗り越える事は出来なかったと思います

黒田清隆氏への陳情の成果で、藩士の去就の制限は余市に入植しなくても良かったわけです

茂友氏の隊長としての任務も、この時点で終わっていたものと思われます

しかし、多くの藩士とともに余市に移住し移住後は、総取締となります

開拓使は、茂友に明治4年に「開拓使権少主典」に任命、以後次の辞令が残っています

明治5年8月25日任少主典
明治6年4月29日移民取締差免更余市詰申付候事
    7月2日河西河東両村取締専務申付候事
明治7年1月17日余市郡移民開墾勉励産業の道相立兼て勧誘行届候段奇特に付御賞として金7円5拾銭被下候
    7月17日依願免本官
       山田黒川両村戸長申付候事
       一金3拾7円5拾銭月給1か月半分 右は満3か年勤続に付被下候事
明治8年10月14日依願余市郡黒川山田村戸長差免候事

開拓使側は、宗川茂友氏を役人として用いようとしていますが、本人は辞退の念が強いように見えます

明治7年には、開拓使権少主典を辞任願を出していますが、その理由として

「自分も開拓者の一人である。しかるに官途にあっては他の人に悪い・・・」と書いています

それを受けて、開拓使はその日に戸長に任命しています

金銭的には、少主典は25円で、戸長は10円ですから、金銭では無かったのでしょう

茂友は、戸長も明治8年10月に辞任していますから、たったの1年で辞任しています


当時の茂友一家の居住地は、現在の開村記念碑付近となっていますから

本間商店としても、大きな縁を感じてしまいます

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■資料:余市町指定文化財「開村記念碑」
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-919.html

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茂友の父の茂弘は、寛政9年9月6日に安衛門茂京の長男として生まれ、容敬公、容保公と2公に侍講として仕えました

忠誠心が強く、72歳で茂友一家と共に蝦夷地へ渡る決心をしたのも藩公の謹慎が解かれる事を願う一心からでした

茂弘は博識で、一時札幌の資生館の教師として招かれましたが、余市に日新館が開かれた事から「開拓使御用係」となり藩士子弟の教育に携わりました

茂弘は、明治11年会津へ帰り明治15年85歳で没しています


父と同じで、熊四郎茂友も君主のために生きた忠誠者でした

容保公がお手元不如意と伝え聞き、自分が得た給与の中から、時折お見舞いとしてお金を送っています

容保公は、茂友の篤い心に対して次のように贈っています


こころざしのあつかりきをよろこびて

蝦夷といへばはるけきものを

遠しともなさでこころはこぶ嬉しさ

            容 保


この短冊は、宗川家の家宝として保管されているそうです



長くなりましたので、次回へ続きます

次は、宗川茂友一家の事情と帰国、白虎隊、士族への復帰などを中心にまとめます


 

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その8

旧会津藩士の資料が一番ありそうなのは「余市水産博物館」なのですが、今は休館中のため手持ちの資料を探しています


まず、計良幸太郎さんが残した資料「余市駅及び附近の変遷」から

旧会津藩士の入植と余市駅

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隊長らは、今のニッカ裏手の記念碑付近に居住し、穀物倉(後に日進館、教育所となる)

この記述から、現在の黒川9丁目に住み、道を挟んで7丁目に穀物倉があり、その裏に侍長屋があったようです

ここが藩士団の中心拠点でした

7丁目の土地は、今でも宗川茂友の長女の嫁ぎ先の「杉本」家の所有地が多く残っています

黒川9丁目から東に曲がり、登街道の両側に村ごと居住しました

余市の銀座街付近は「佐藤駒之進(白虎隊半隊頭・黒川2番村長)」

その大川町側は、「在竹四郎太(二百石取黒川4番村長)」、在竹氏は余市稲荷神社(後の余市神社の神主)の所有地

登街道踏切付近から余市駅にかけては「小栗富蔵」氏で、大正時代には貸家を建てて小栗長家と称されていたようです


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宗川茂友さん関連の本を探していて、この本が届くのを待っていたので、続きが遅れました

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りんご侍と呼ばれた開拓者 汚名を返上した旧会津藩士の軌跡 単行本(ソフトカバー) – 2018/3/1
森山 祐吾 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/489115344X/

内容紹介

戊辰戦争に敗れ賊軍として北海道余市に移住させられた旧会津藩士たちは、苦難の末に「りんご王国」を築き上げた。
彼らの再生を描いた表題作をはじめ、北海道を舞台にした4つの短編秘話を収録。

〈「北海道ノンフィクション賞」受賞作品集〉(受賞順)
サンゴ礁の落日 …太平洋戦争秘話(第30回佳作)
版画に祈りを込めた男 …木版画家・阿部貞夫(第31回佳作)
至誠に生きた男 …実業家・新田長次郎(第32回準大賞)
りんご侍と呼ばれた開拓者 …旧会津藩士の軌跡(第33回大賞)

著者について

森山祐吾(もりやま・ゆうご)…北海道史研究家・ノンフィクション作家
1940年北海道オホーツク管内雄武町生まれ。中央大学卒。民間会社定年後、北海道史の研究を進める中で、時代に翻弄されながらも強い信念をもって生き抜いた人々や、意外な史実が多いことに気づく。以来、これら埋もれた歴史に光を当て、私塾「北の歴史塾」の講座や各所の講演を通して語り伝えている。
主な作品に「海の総合商社・北前船」「宗谷海峡を渡った侍たち」「北の大地を開いた薩摩人」「幕末の通詞・森山栄之助の活躍」「北海道占領をめぐる米ソの暗躍」「石川啄木の北海道時代」などがあるが、いずれも未刊行。

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中西出版
りんご侍と呼ばれた開拓者─汚名を返上した旧会津藩士の軌跡
http://nakanishi-shuppan.co.jp/archives/6080/



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■宗川茂友の帰郷

宗川家が帰国したのは、明治11年か12年と推測されています

次男の虎次の著書に

「明治11年、余は父に先だちて北海道より会津に帰り・・・」という記述がある

宗川家は、明治5年の黒川村畑作開墾帳から、抜群の実績をあげて、総取締役としても模範となっている

もし、役人として残れば、生活も安定し良い地位を得られたと思われます

それなのに、何故に帰郷したのかについて、前田氏は理由をあげています


第一として、宗川茂友の任務がいちおう終わった事です

北海道移住団の中隊頭としての任務は、樺太開拓使の保護扶助受けるように決定した時で解消した事

宗川茂友は、1団員として余市郡に入植し、改めて投票によって総取締役に選ばれた事から

当初の任務が終わった事が根拠としてあると言います


第二に考えられるのは、父茂弘の高齢にあるという

明治10年で、茂弘は満80歳となっています

誠忠無比と言われた茂弘の渡道は、ただいちずに旧主と1藩の謹慎が解かれるのを願っての事でした

その謹慎も解けています

毎朝先君の霊を遙拝するときに、浮かぶのは懐かしい故郷の山々であり、2代の君主の姿や旧知の人々の顔であったという

それは、孝心深い茂友に帰郷を決意させた一因では無いか


第三の理由は、一子の虎次は頭脳明敏で学問に優れていましたが、歩行が不自由であったという

北海道の開墾は簡単では無いと身をもって体験した茂友は、未開の北辺で虎次が農民として生きる事の不適を悟ったのではという


明治10年は、余市に入植して7年目となり開墾地が付与され各自の所有地となり、一段落しました

茂友に帰郷の決意をさせる節目だったのかも知れません


葛西富夫著「北の慟哭 : 会津・斗南藩の歴史」の中では、宗川茂友について

「総取締役の任にあった宗川熊四郎茂友さえ、余市を放棄して、さっさと会津に帰還した・・・」と書かれているのですが

理由なく、帰郷だけをクローズアップされては、開墾の努力も浮かばれません

会津に戻った茂友は、明治25年、会津尋常中学校の武芸教師に嘱託され、明治37年3月8日満74歳で生涯を閉じています


■次男「宗川虎次」

宗川家の家督は、茂友の次男の虎次に受け継がれます

虎次は、文久元年6月生まれ、頭脳明敏で余市日新舘・黒川郷学所に在学中も頭角を抜いていて、開拓使から褒賞を受けている

会津に戻った虎次は、後年になり「補修会津白虎隊19士伝」を著している

この本は、会津戊辰関係5大名著の一つに挙げられています

後に東京帝大総長の山川健次郎氏が補修を加えて大正15年に初版を出版しています


茂友の長男の虎松は戊辰当時17歳でした

まだ白虎隊編成前でしたが、数名の年長者と井深隊に入り越後方面に出陣します

9月1日に負傷し、同16日に戦病死しています

虎松が、陣中から父母に送った手紙には、戦死を覚悟し、白虎隊士に劣らない会津士魂をあらわす遺書と言われています


■白虎隊


余市黒川小学校の前身の余市尋常高等小学校時代、運動会では「白虎隊の剣舞」がありました

『霧のごとく乱れくる敵の弾丸ひき受けて、命を塵と戦いし37の勇少年、これぞ会津の落城のその名も聞こえし白虎隊』

ググってみますと

http://www.niks.or.jp/~ja0jac/

昭和04年(1929年) 唱歌 歌詞附
会津若松第一小学校
第一白虎少年団

※現在では「白虎隊」の歌と言えば、昭和25年(1952年)発売の古賀政男作曲の「白虎隊」一辺倒ですが、それ以前はこの「白虎隊の歌」が明治37年以来歌い継がれてきた。0535tomb1兄のコメントによると、終戦の昭和20年までは「白虎隊の歌」しかなかったとの事ですが、今ではこの歌を知る人は殆どなく忘れ去られた歌のようです。「会津若松第一小学校 第一白虎少年団」が今も存在しているのか解りませんし、どのような経緯でレコード吹き込みにいたったのかも解りませんが、この名曲を後世に残してくれた事に感謝いたします。

霰のごとくみだれくる 敵の弾丸ひきうけて
命を塵と戦ひし 三十七の勇少年
これぞ会津の落城に その名聞えし白虎隊

味方少なく敵多く 日は暮れはてて雨暗し
はやる勇気はたわまねど 疲れし身をばいかにせん
倒るる屍、流るる血 たのむ矢玉もつきはてぬ

残るはわづかに十六士 一たびあとに立ち帰り
主君の最後にあはばやと 飯盛山によぢのぼり
見れば早くも城落ちて 焔は天をこがしたり

臣子の務はこれまでぞ いでいさぎよく死すべしと
枕ならべてこころよく 刃に伏しゝ物語
傳へて今に美談とす 散りたる花のかんばしさ 
※この歌詩は明治37年の国定小学読本(高等科)に掲載されている。

白虎隊の歌 (会津若松第一小学校)

https://www.youtube.com/watch?v=-573mepowSU

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白虎隊 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/白虎隊

白虎隊(びゃっこたい)は、会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。

幕末の会津藩が組織した部隊には他に玄武隊、朱雀隊、青龍隊などがある。名前の由来は、中国の伝説の神獣である「白虎」からである。

概要[編集]

慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。

白虎隊は本来は予備兵力であった。隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、充足数はおよそ340名程度とされた。なお、装備していた火器は旧式銃(ヤゲール銃、ゲベール銃の短銃身化、前装装条銃)のみであったとされる。これは火縄銃よりはましというレベルの装備であり、新政府軍の主力たる西南雄藩部隊の装備に対して著しく劣っていた(そもそも東北諸藩のほとんどは、旧式軍備の更新を行わないまま戊辰戦争に突入していた)。

会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、その上重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍した。若年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。

しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられ、最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。このうち一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸ノ口原(戸ノ口原の戦い)で決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからずあり、8月23日に負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びた(この間、庄田保鉄ら隊員数人が農家で草鞋を貰い受けている間にはぐれた)。このとき、ここから眺めた戦闘による市中火災の模様を目にし、結果総勢20名が自刃を決行し、唯一喉を突いた飯沼貞吉(のち貞雄と改名)のみが一命を取り留め、その他19名が死亡した。一般に白虎隊は若松城周辺の火災(もしくは城周辺から上がる湯気)を目にし落城したと誤認して悲観したとされているが、飯沼が生前に伝え残した手記『白虎隊顛末略記』(飯沼からの聞き書きに飯沼本人が朱を入れたもの)によれば、当時隊員らは鶴ヶ城に戻って敵と戦うことを望む者と、敵陣に斬り込んで玉砕を望む者とのあいだで意見がわかれ激論を交わし、いずれにせよ負け戦覚悟で行動したところで敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊員らは、城が焼け落ちていないことを知りながらも、武士の本分を明らかにするために飯盛山で自刃を決行したという。

途中はぐれた庄田保鉄らはその後、鶴ヶ城に入城し、士中一番隊の生存者と共に白虎士中合同隊となって西本丸を守った。籠城戦は1か月続いたが、最終的に会津藩は降伏した。

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白虎士中二番隊[編集]

隊長
日向内記

小隊頭
山内弘人 
水野祐之進

半隊頭
佐藤駒之進 
原田克吉

隊士 

安達藤三郎※ 
池上新太郎※ 
石山虎之助※ 
井深茂太郎※ 
片峯祐之進 
笹原傳太郎 
篠沢虎之助 
庄田保鉄 
多賀谷彦四郎 
津川喜代美※ 
永瀬雄次※ 
江南哲夫
成瀬善四郎 
野村駒四郎※ 
原鋧三郎 
間瀬源七郎※ 
簗瀬勝三郎※ 
矢島八太郎 
有賀織之助※ 
石田和助※ 
伊東悌次郎※ 
伊藤俊彦※ 
伊東又八郎(伊藤又八)
飯沼貞吉※ 




白虎隊の所属だった人物に「佐藤駒之進」という名前があります

彼は戦死したと思われていましたが、明治2年9月の北海道移住第2次隊の小隊頭となって大阪丸で渡道していました

そして、余市に移住し黒川村第2班の村長となっています

佐藤駒之進が白虎隊の将校だった事を語った事は一度も無かったそうです

池上新太郎は、佐藤駒之進の姉の子供で甥という存在が、自分の隊員でありながら自決した事もあったのかも知れません

佐藤駒之進は、一切の公職にもつかず、沈黙のまま開墾に明け暮れ、大正2年1月7日76歳で没しています

駒之進の子孫は、今でも余市町でりんご栽培を続けています

昭和42年まで、会津若松では佐藤駒之進は戊辰戦争の死者とされていましたが

前出の「計良幸太郎」氏が、駒之進の晩年の写真を添えて白虎隊記念館長に伝え、訂正されたそうです


他にも、白虎隊からの余市移住者の方々(敬称略)

士中一番隊から「木村直人」「中山覚」

寄合一番隊から「島影幸次郎」二番隊「金子新六」「吉田豊記」「鈴木平助」

足軽隊から「本名信吾」


将校としての寄合一番隊小隊頭が「在竹四郎太」氏です



次回は、ケプロンと余市に関連したまとめです

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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その9(終)

文字色

平成27年5月に、旧会津藩士の末裔の余市町山田町在住の「吉田ひろかず」氏が作成した

「余市町の会津関係地図」

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御受書------------------------- 余市水産博物館(入舟21番地)*入館料300円*冬期閉館中

記念樹------------------------- 余市町役場前(朝日町26番地)

殉節碑/日進館跡----------------(黒川町7丁目78番地)*会津本国と同じ名前は恐れ多いと言う事で「日進館」と命名

開村記念碑/記念植樹------------(黒川9丁目58番地)

会津藩士の墓/記念樹2本松------- 美園墓地(美園町33番地)

記念樹(杉)記念樹(赤松)は、山田町にあります

緋之衣りんご------------------- 吉田観光農園(山田町7番地)*地図の作成者


この地図と同時に、「余市町における、会津藩士の足跡」という小冊子も出されています

吉田浩一さんは、会津藩士の吉田家の4代目、余市町議会議員です

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■りんご侍

吉田観光農園には、樹齢100年を超える「緋の衣」の老木が現存しています

りんごの樹の寿命は、普通40年と言われていますから、長寿です

「緋の衣(ひのころも)」は、かつて全国一になった事もある品種で、日本人が初めて栽培で結実させた品種でした

余市に移住した会津藩士は、開拓使から推奨されたりんご栽培をに挑み、明治12(1879)年、待望のりんごが初めて結実させたのです

このりんごの名前は、幕末に会津藩が京都守護職に任じられた際に、孝明天皇から下賜された「緋の御衣」と同じ色のりんごだった事から命名されたのです

この日本初めてのりんごを結実させたことから、余市在住の旧会津藩士は、「りんご侍」と呼ばれる事になりました


■ホーレス・ケプロンと「農業現術生徒」

余市へ移住しても開墾と農作業に追われ、侍から農家へとすぐに移行できたわけではありません

開拓使は、責任開墾を奨励し機械と農耕馬を導入します

更に、農作物の販売のために「余市開墾会社」を設立して移住者の定着を図りました

北海道には、すでに幕末に旧幕府の榎本軍から99年の租借地の七重で、プロシア人のガルトネルがりんごの苗を持ち込んでいました

明治政府は、明治3年11月に、この租借地契約を6万2500ドルの違約金を支払って取り戻して、開拓使官園を開きます

黒田清隆長官は、開拓専門家を招くためと農業視察で、明治3年の年末にアメリカへ渡っています

この時に、アメリカ東部で、りんごの苗木(75種類)を購入しています

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ホーレス・ケプロンが、開拓使顧問として黒田清隆の要請に応えて来道したのは、明治4年の7月(8月説もあり)の事でした

ケプロンは、北海道の開拓と西洋農業技術の導入と農業技術者の養成を提案しています

開拓使は、明治5年4月には、農業現術生徒の制度を設け、東京官園を実習所として全国から生徒を募集しています

公費で5年間の修行の後に、開拓使に勤務するという制度でした

その第1期生20人の中に、余市移住組から志願したのは、当時30歳の「中田常太郎」氏(現術1等生)がいました

他にも、静内に入植した士族の子弟などもいました

その東京官園で、ルイス・べーマーから果樹栽培を、エドウィン・ダンから家畜の餌養法や農業機械の使用法などを学んだのです

明治7年には、現術4等生に「金子安蔵」氏「東 轟」氏がいます

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エドウィン・ダンと一緒の金子安蔵氏

明治9年の札幌農学校の創立まで、東京官園で、8年「東 蔵太」「川俣友次郎」9年「木村猪和雄」「横山留三」氏が学びました

8~9年の現術生徒は、余市へ戻って農業経営に専念しています

現術生徒が余市に戻って来てから、開墾も進みました

ケプロンが、余市に立ち寄ったのは、明治6年8月21日で、一泊しています

余市側流域の農地や入植地を視察しています

ケプロンは、種や苗を供給していない事や、野菜の栽培が密植すぎる事などを指摘している


■りんごが実る

開拓使の種や苗の無料配布が始まるのは、明治8年頃でした

「かぼちゃ」「馬鈴薯」のほかに、りんごの苗446本、梨585本、杏5本でした

りんごの苗は、各農家に数十本配布されています

しかし、りんごの実など見たこともないわけですから、放置されたりしていたわけです

そこで、現術生徒だった川俣氏や東氏が、ルイス・べーマーから習った栽培から収穫までを指導して行きます

苗を移植してから、3年目の明治11年にりんごの花が咲きました

開花を見た事で期待が膨らみましたが、結実はしませんでした

翌12年、ふたたび開花し、花が散った後に小さな実が結実しました

しかし、この年は嵐が襲い、結実した成熟間近な実を雨や風が落としてしまうのです

その中で、山田村の「赤羽源八」氏と「金子安蔵」氏の樹は、嵐に耐えて実を残しました

これが、日本初の民間によるりんごの結実となったのです


赤羽源八氏のりんごを見た、総取締役の宗川茂友氏が、このりんごの色を見て

孝明天皇から恩賜された緋色の陣羽織と同じ色だとして「緋の衣」と名付けたと言われています

(宗川茂友が、この時点で余市に残っていたのか、帰郷していたのかは不明です)

赤羽源八氏の「緋の衣」が6個、金子安蔵氏の「国光」が7つと記録されています

***実際には、品種名が付けられたのは、明治33年で、当時は番号で呼ばれています

***(緋の衣は19号、国光は49号、紅玉は6号、祝は14号などです)


国光は病害虫にやられて、原木は現存していませんが、

緋の衣は、吉田観光農園から苗木が「会津平成りんご研究会」に贈られ、栽培に成功しています

余市移住の会津藩士が、育てたりんごの品種「緋の衣」が故郷に戻ったのです


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余市移住の会津藩士物語は、まだまだ続きがあるのですが

りんごの実の結実までを書いてみました


戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~前田克己著~

豆本の発行に尽力されました前田克己氏の追悼の意を込めて

会津藩士の余市移住から150年の節目に当たり記事を書かせて戴きました



<参考文献>


余市在住「会津藩士物語」前田克己
余市町史4~明治1
余市文芸42号~余市あれこれ~菅原一也
余市物語~朝谷耿三
小樽・後志の歴史
余市駅及び附近の変遷~計良幸太郎
余市町における、会津藩士の足跡~吉田浩一
北の青嵐選集~編:鈴木卓郎
旧会津藩士の足跡

ケプロンの教えと現術生徒~富士田金輔
りんごの歩んだ道~富士田金輔
りんご侍と呼ばれた開拓者~森山祐吾

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昭和12年の5月の「殉節碑」の除幕式(山田町開拓回顧録)より

右の建物が「日進館」で、左側の楡の木は平成16年に伐採されています

現在は奥の銀杏の樹が成長して殉節碑を護っている感じですね

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現在の殉節碑です


北海道に春が巡って来ました

余市町の美園墓地の丘の南面には、会津藩士の墓石が立ち並ぶ場所があります

故郷の会津若松に望郷の気持ちを持ちながら、そこに眠っています

昭和59年6月18日開拓記念碑に、旧会津藩士松平安保公の孫にあたる、当時の福島県知事で前参議員議員の「松平勇雄」氏が訪問しました

記念撮影時には、世が世であれば近づく事も出来ないお殿様がと最高齢者の水野ヒデさんは、余市まで来てくれたことに感動したそうです

この時に、記念樹として「オンコの木」を植樹しています

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松平勇雄さんは、2年後の昭和61年5月にも来町されました

その時には、水野ヒデさんが亡くなっていて、旧会津藩士の墓地も修復されたために寸暇の中墓参されたそうです


現在の開拓会津藩の出身の余市在住家(敬称略)

三宅権八郎、渡部岩三郎、小松勇三郎、水野生太郎、船橋市八、石山亀次郎、川俣与四之助、鈴木兼友、黒河内辰己、青木丑之助、佐藤駒之進、永岡長吉、東蔵太、中野新太郎、枝村伝八、永井辰治


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戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その1
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1000.html

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その2
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1001.html

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その3
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1002.html

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その4
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1003.html

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その5
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1004.html

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その6
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1005.html

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その7
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1006.html

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その8
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1007.html

戊辰150周年~余市在住「会津藩士物語」~余市豆本11より~ その9
http://kitakazoku.blog6.fc2.com/blog-entry-1008.html

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